現存する過去の写真と現在の写真を対比しながら、鎧橋の歴史を紐解きます。
鎧の渡し
鎧の渡しは、江戸時代の元禄年間(1688年~1704年)以来の切絵図や地誌類にも記される日本橋川の渡し場で、鎧橋が掛けられる1872年(明治5年)まで存続していました。
伝説によると、平安時代の永承年間(1046年~1053年)、当時入江が深く入り込み、下総方面への渡し場に利用されていたこの地に、源頼義が奥州平定の途中やってきた際、ここで暴風逆浪にあい、渡し船が沈みそうになったので、重い鎧を海中に投じて海神(龍神)に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだと言い伝えられています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
鎧橋
1872年(明治5年)、三井・小野・島田の三家が自費で木橋を架設し、最初の鎧橋が架けられました。「開化にも似合わぬ名あり鎧橋」と戯歌が詠まれたりしました。
プラットトラス型の鉄橋に生まれ変わったのは1888年(明治21年)4月7日で、1915年(大正4年)に拡幅工事が行われました。その後、老朽化により1946年(昭和21年)に都電の通行を禁止、そして、1957年(昭和32年)7月に現在のゲルバー桁橋に架け替えられました。
鎧橋を日本橋兜町側から見た写真です。左側明治時代の写真には、プラットトラス型の美しい鎧橋が確認できます。現在の鎧橋は、証券の街に架かる橋です。そのため、真偽の程は定かではありませんが、昔の大暴落の後などに相場で絶望した人たちが鎧橋から身を投げ、橋の下には死体がたくさん浮いたとの噂もありました。
鎧橋を日本橋小網町側から見た写真です。左側明治時代の写真中央には、1899年(明治32)年3月竣工の株式取引所が見えます(現在の東京証券取引所です)。この建物は1923年(大正12年)に焼失しました。
「メイゾン鴻の巣」
鎧橋の日本橋小網町側橋詰付近に、1910年(明治43年)、東京で最初のカフェ「メイゾン鴻の巣」というフランス風料理店ができました。ここをよく利用していたのが、与謝野鉄幹、木下杢太郎、北原白秋、小山内薫、永井荷風、久保田万太郎、吉井勇、岡本一平、谷崎潤一郎などいずれも明治・大正時代を代表する文化人たちでした。彼らはこの店で時折「パンの会」を催し、耽美主義的な新しい芸術運動を展開しました(「パン」とは神話に出てくる牧羊神のことです)。彼らは、この店のコーヒーや酒を主題にした作品を数多く残しています。芥川龍之介の処女創作集「羅生門」の出版記念会もこの店で催されました。その後「メイゾン鴻の巣」は1920年(大正9年)に京橋に移りました。