3.復興期
1999(32歳)~2002(35歳)
1999.05 – 1999.09
MASERATI QUATTROPORTE V8 EVOLUZIONE 1999

私は、考えました。ベッコアメを起業した時に、一体何が起こったのか。どういう環境が、私に起業の一押しをしたのか。思い出してみます。当時私は、「自分の経済力以上の買い物」であったコルベットに乗り、クレジットカードのキャッシング地獄にはまっていました。窮鼠猫を咬む、という言葉を自らをもって試していました。それと起業の因果関係は不明ですが、考えても答えの出なかった私が取った道は、「あの頃の環境の再現をしてみよう」という、実に稚拙で浅はかな作戦でした。
幸いにも、ベッコアメから追われたことは、まだ一部の人たちしか知らないことでした。クルマを購入するとして、ローン会社には、今だベッコアメ社長、尾崎憲一としての与信力が評価されていました。自分に残された財産は、数千円の所持金ではなく、この与信力であることに気づきました。私は、その与信力が失われる前に、確定した権利としてそれを手に入れなければならない、との考えに至りました。
こうして私は、収入の見込みの全くない中で、ただ与信力だけを使って、払う当てのないローンを、尾崎史上の伝統である男の60回で組み、新車のマセラティ・クワトロポルテ・エヴォルティオーネV8を購入しました。最後まで手放さなかったLM002を、売却させられた同月に、バトンを渡すようにマセラティに乗り継ぎました。月額返済額は、大卒初任給クラス。この無謀とも呼ぶべき、強烈な大仕掛けにより、私は窮鼠となるべく背水の陣を自ら構えました。

マセラティ・クワトロポルテは、美しいクルマです。奇才ガンディーニによるデザインは、どこかランボルギーニのセダンっぽくも見えます。排気量3,200cc、DOHC V型8気筒に、ごりごりチューンのターボチャージャーを乗せて、最大出力340psを発生。今までの私のクルマ遍歴から見ると、おとなしいように見えますが、とんでもありません。さすがはマセラティ。スペックが間違っているのではないかと思うほどの、走りです。多少のターボラグはありますが、その後パワーバンドに入った際の加速は、まるで2ストロークのバイクのようです。「今までで一番力あるんじゃないか?」クルマに詳しくない人がそう言ったほどです。そんなクルマでありながら、ASR(駆動輪の空転防止機構)すらなかったために、雨の日にちょっとアクセルを踏んだだけで、テールを滑らせてしまう、ちょっとあぶないクルマでもありました。やっぱり、マセラティも、一分の隙もないクルマでした。
私は、このマセラティの爆発的な加速を得て、(話がとても長くなるので割愛しますが)人生の復興の一歩を記すことに成功しました。ただ一度として滞ることなく、マセラティのローンの返済をスタートさせることができたのです。ただ、これで楽観することはできません。真の復興はまだまだ遠い道のりです。こうして、不安と期待の入り交じる起業家尾崎憲一の第2幕は開きました。
しかし、復興は常に右肩上がりで進んではいきませんでした。マセラティ購入後からわずか3ヶ月。まだローンが57回残っているところで、事故により大破、保険に入っていなかったために、男のローンだけが残るという大惨事が発生してしまいます。尾崎憲一史上、自分のクルマを所有するようになってから初めて、「自分のクルマがない」という期間に突入します。
1999.12 – 2010.07
LAMBORGHINI SILHOUETTE 1977

クルマを購入できないという、私にとっての不可抗力下の状況ですから、半ば諦めムードの中で悶々とする日々を送っていました。そんな中で、あるところから情報が入ってきます。それは、ランボルギーニ・シルエットの売却を検討しているオーナーがいる、というものでした。
ランボルギーニ・シルエットは、ウラッコのチューンドカーという位置づけで、1976年に発表されました。ミッドシップ・レイアウトの3,000cc、DOHC V型8気筒のエンジンは、最高出力250psを発生し、285-40ZR15(ピレリP7)という、当時としては桁違いのタイヤを履き、1,375Kgのボディを、時速260km/hまで引っ張りました。当時からライバルだったフェラーリに惨敗したウラッコの恨みを晴らすべく、ランボルギーニのお家芸でもあるやけくそチューンを施して市場に送り込まれたシルエットは、ウラッコ同様、いやそれ以上の大敗を喫し、製造台数わずかに55台、うち市場に出たものは53台(日本には3台入ってきました)という、ランボルギーニ史上に燦然と輝く大失敗作となります。ウェーバー4連×2のキャブレターを備えたエンジンは、ランボルギーニの失敗レイアウトである横置きに組み込まれています。車内側バンクのプラグを外すには、エンジンルームと車内とを仕切る壁により阻まれ、専用の工具を使って、小一時間かかります。文字通り、そこには一分の隙もありません。一部のウラッコ/シルエットオーナーは、この手間を省く為に、この壁に点検窓を開けて室内側から簡単にプラグを外せるようにしたようですが、私のシルエットの前オーナーは、気合いの入った人だったため、傷物にはなっていませんでした。
私は、オーナーとの交渉の後、このランボルギーニ・シルエットを個人売買にて手に入れました。我々ランボルギーニ・フェチからすると、極めてプレミアムなクルマですが、とにかく古いというのと、パーツ不足、そして何より、ランボルギーニということで、わずか500万円で譲ってもらいました。シルエットは、特殊なクルマです。当時はシーサイドモーターという正規ディーラーがありましたが、私がシルエットを譲ってもらった時点では、それがありませんでした。その代わりといっては変ですが、オーナーからシルエットを受け取る際に、クルマと一緒に、なんと、シルエット専属のメカニックを同時に紹介してもらいました。このメカニック、普段から大きなバンに乗り、シルエットが壊れると、それがどこで、どんな時間であっても駆けつける、という専属同行医師のような人です。聞けば、今まで一番遠かった故障現場は、(シルエットではなかったようですが)青森県八戸!だったようです。
それにしても、シルエットはよく壊れます。壊れるなんてもんじゃありません。「私のクルマだってよく壊れるさ」というオーナーばかりを集めて、愛車の壊れる度コンテストをやったとしても、私のシルエットが優勝することは間違いありません。1年を通じて修理中、シルエットに乗れるのは僅かに数週間です。10ヶ月も待った大修理の後、うれしくて渋谷に買い物に出かけたのはいいのですが、帰りは当たり前のようにタクシーで帰ってくる、そんな戦艦大和のようなクルマでした。
ただ、この僅かに乗れる期間でも、シルエットは十分にその魅力でオーナーを魅了してくれます。まさに、エンジンに火を入れる、という表現がぴったりな、儀式のようなエンジンの始動をすれば、シルエットは官能的な音と振動に包まれ、まるで目を覚ましたけもののようです。オイル臭い室内に乗り込み、駅のホームにあるプラスチックのイスのような堅いシートに身を沈め、踏み込み40Kgもあるクラッチペダルを踏んで、ギアを手前左下の一速に入れます。アクセルを吹かさずにクラッチをつなぐと、シルエットははじかれたようにグイと前に押し出されます。そしてアクセルを踏み込みます。尻の下から来るしつけの悪い振動、もはや室内で会話不能のエンジン音が、クルマ全体を包み、頭の中が真っ白になります。あとは、まるでクルマに操られるようにただどこまでも走り続けるだけです。
SC番号41、フレームNo.40.082。国内で唯一走れる(残り2台はすでに廃車されています)ランボルギーニ・シルエットは、ガンディーニがデザインしたクルマを持ちたい、という、子供の頃からの夢にしがみついている私の性を満たしてくれる鎮静剤であり、また、ベッコアメ時代の過去の栄光の残り香を探しさまよう、私にとってランボルギーニの遺構でもありました。実際に所有してみれば、お世辞にも完成されたクルマとは言い難いランボルギーニ・シルエットは、ランボルギーニ・フェチが、往年の名車を所有する、というより、当時の私には、なぜかその時の自分にぴったりなクルマに見えていました。いつか、私もシルエットを、自分のコレクションとして迎え入れることができるのか。その時が来るのかを試したくて、専属メカニックが2005年に大病を患い修理ができなくなった後も、最後に故障した状態のままで実に10年以上も所有し続けていました。
2000.02 – 2002.12
AUDI A4 QUATTORO 2000

それでも私は、やはり、ごく普通のクルマを購入する判断は下せませんでした。結果、選択されたのは、アウディA4。尾崎憲一史上初のドイツ車です。痩せても枯れても、買わないと心に決めていた、ドイツ車に手を出すことになりました。
私は、もともとドイツ車が嫌いです。それは、ベンツであろうと、BMWであろうと、アウディであろうと、ポルシェであろうとも、です。ドイツ車は、工業製品というニオイがぷんぷんしていて、嫌いです。人が作った、という感触を感じられないところが、嫌いです。どんな高級モデルになっても、平気で内装をプラスチックで作ってしまうところが、嫌いです。ちっともはじけてなくて、まじめぶっていて、優等生気取りのところが、嫌いです。そしてなにより、「贅沢するなら、誰が見ても分かる贅沢品を買わないと」というブランド志向のかたまりである日本人が、意味もなく群がるという、クルマの選択者(つまり、オーナー)が嫌いです。

アウディA4選択の理由はこうです。まず金額的に妥当であるということ。それから、あまりクルマの取り回しが得意じゃない妻にちょうどいいボディサイズであるということ。そして、ドイツ車の中では、まだアウディは、尾崎憲一的に受け入れられる、ということです。この最後の理由は、実はいまだにうまく説明できないのですが、嫌いなドイツ車の中にも、ちゃんと「嫌い度」ランキングみたいなものがあって、その中で、アウディは下位に位置しています。(ちなみに、嫌い度ランキングNo1は、ベンツです)
こうして、私は、尾崎憲一クルマ史上初となる、ドリンクホルダー付きのクルマを購入します(逆に、よくもまぁ、今までのクルマには付いてなかった、と言った方がよいでしょう)。それも、右ハンドル仕様!(これも、最初のトレノを除いて初です)で。
何だかんだ言いながらも、結局嫌いなドイツ車に手を出した私は、以前の、どこかとがった感覚で充ち満ちていた異端児的なパワーは明らかに色褪せ、妥協と解釈の領域に入り始めていました。「そんなことは不可能だよ」実につまらない言葉を平気で口にできるような、そんな人間になっていました。「良く言えば無抵抗主義、悪く言えばただの腑抜け」そんな評論さえ、聞こえても憤慨しない人間になっていました。オフェンスからディフェンスへ。尾崎憲一の人生において、果敢なチャレンジャーとしての一期間の峠を越えてしまった感がありました。